2024/12/19 23:56

新渡戸稲造 生誕150年記念 第1弾「世界を結ぶ『志』~新渡戸稲造の生涯~」

国際人

 

新渡戸稲造 生誕150年記念 第1弾「世界を結ぶ『志』~新渡戸稲造の生涯~」

国際間の使徒として平和のため捧げた晩年

第一次大戦の終結を受けて、大正9(1920)年国際連盟が結成されると、稲造は事務局次長としてジュネーブに滞在し、国際間のかけ橋となる。大正11(1922)年にはノーベル賞受賞者を主な委員として、教育、文化の交流、著作権問題、国際語の問題などを審議する知的協力委員会を発足させたが、この委員会は現在のユネスコの前身にあたり、今もその精神は受け継がれている。

大正15(1926)年事務次長を辞任後、貴族院議員としても活動するが、この頃から各地を講演してまわりながら三本木、盛岡、札幌とゆかりの地を訪ねていく。昭和4(1929)年太平洋問題調査会の理事長となり、同年京都で開催された第三回太平洋会議では議長を務めた。翌年には英文大阪毎日で“Editorial Jottings”(編集余録)連載を開始、昭和6(1931)年には故郷岩手県の産業組合中央会岩手支会長に就任、また東京医療利用組合設立へも尽力し活動は様々な方向への広がりをみせていた。

しかし、同年9月満州事変が勃発、日本への非難が高まり日米関係が悪化していくと「太平洋のかけ橋」としての役割をはたすべく奔走する。この頃から体調を崩していたが、上海で行われた第四回太平洋会議に出席し、日中関係の改善を模索する。その後、松山での講演の折り軍部の暴走により戦争につながる事への憂慮を記者へもらした所、在郷軍人会や右翼から攻撃を受け身の危険にまでおよび、ついには帝国在郷軍人会評議会で陳謝する事となってしまう。いよいよ日米関係が悪化した事を感じた稲造は、昭和7(1932)年渡米し、出渕駐米大使とともにフーバー大統領を訪問、さらにスチムソン国務長官との対談をラジオ放送でおこなうなどして日本の立場を訴えたが、アメリカ世論を敵にまわしてしまい「渡米は松山事件からの保身のための行動」との大きな誤解を受ける。

日本、アメリカ両国で多くの友人を失い、日米関係改善の目的も達成できぬまま昭和8(1933)年3月帰国、その直後日本は国際連盟を脱退する。その後の5ヶ月間、稲造は死を予感する人のように旧知の人々を訪ね、三本木の祖父の墓・太素塚や盛岡などを訪問しており、同年7月には以前から気にかけていた「唐人お吉」ゆかりの地をたずね、お吉が入水した渕に慰霊のため「お吉地蔵」を建立する事を人に頼んだ。

8月、平和への最後の望みをつなぎ、カナダのバンフで行われる第五回太平洋会議に出席するため太平洋を渡る。会議では体調の優れない中で日本側代表としての演説を成功させるが、その一ヶ月後病に倒れ、昭和8年10月15日、カナダのビクトリアで 71歳の生涯を閉じた。稲造の死後、第二次世界大戦が起こり人々は多くのものを失った。しかし、命の最後まで平和のために尽くした稲造の生涯は今、現代の人々に多くのことを教えてくれる。

http://www.nitobe.jp/inazo/index.html