2024/12/20 00:56

『交響曲第九番』 アジア初演の秘話 軌跡の捕虜収容所

編集者より

 

軌跡の捕虜収容所 『交響曲第九番』 アジア初演の秘話

 

⇒ Ludwig van BEETHOVEN 『交響曲第九番』 アジア初演の秘話

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ  
一、      年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ  
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ  
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ  
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ  
ならぬことはならぬものです

これは明治維新となる戊辰戦争で、最後まで徳川幕府藩として薩長連合軍と戦った、白虎隊に象徴される会津藩の『什の掟(じゅうのおきて)』である。
明治新政府の官軍に滅ぼされて苦難の体験をした福島・会津藩士の息子、松江豊寿(まつえ・とよひさ)陸軍大佐は、降伏した者としての屈辱と悲しみの中で憤死した父の遺志を引き継いで、“ならぬことはならぬものです”の正義を、かたくなに守り通したサムライだった。
そのサムライ魂のお陰で、日本とドイツの絆は歴史に残ることになる。


明治維新は1868年。
日本は各藩の武士社会から、国を挙げての富国強兵の西洋式軍隊に変貌し、1904年には世界最強国のロシア帝国を倒してしまうという日露戦争に進む。
コロンブスの大航海時代以来、地球の至るところを植民地化していた白人を、極東の小国、それも有色人種が打ち負かした事実は、トルコ独立など世界的に大きな影響を与えた。
日露戦争前年の1903年にはライト兄弟が有人機の初飛行に成功している。
それから10年後の1914年、第一次世界大戦が始まる。
飛行機も空からの攻撃に加わるほど進化している。
ドイツを中心とするオーストリア・トルコ・ブルガリアの同盟国が、イギリス・フランス・ロシア・イタリア・アメリカ・日本の連合国を敵に戦った戦争である。
ドイツは中国の青島(チンタオ)を植民地化してアジアの根拠地にしていた。
日本は連合国の一員として、敵国であるドイツ基地を攻略するべく、中国へ3万人の軍隊を進めた。
本国からはるか遠い中国で孤軍奮闘のドイツ軍は、77日間であっけなく降伏した。 
森鴎外が1884年、北里柴三郎が1885年、瀧廉太郎が1901年にと、多くの国費留学生がドイツに渡ったように、わが国の明治の文明開化は、ドイツに学び、法律や医学などドイツ文化を真似て追随したものが圧倒的に多かった。
そのわずか数年後に、ドイツを敵にして戦争をしなければならなかったのは、伊藤博文を始め、夏目漱石などの英国留学が示すように、幕末の動乱に暗躍して坂本龍馬に多大な援助をしたグラバーなど、地球上の1/4を植民地化している強国、維新の原動力を提供した大英帝国と日英同盟を結んでいたためだった。

世界の一流国と肩を並べるには連合国の一員にならなければならなかった事情があった。

4715人ものドイツ兵を戦争捕虜としたが、そこからが大問題だった。
捕虜となって辱めを受ける前に「自決」するのが軍人、その日本的な考え方があったため、まさかこれほど大量の捕虜を受け入れることになるとは誰も考えていなかった。
1899年に国際的に締結されていた「ハーグ陸戦条約」の捕虜規定では、「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」と、人道最優先となっていた。
強制労働や虐待は国際相互協定で禁止されていたのだ。
後進国である日本を、白人国の欧米列強に「文明国である」と認めさせるためには、条約を紳士的に遵守して、武士道精神を国際的に展開してみせるしかなかったから、10年前の日露戦争でも世界が驚くほどロシア兵の捕虜を丁重に扱っていた経緯がある。

4462名の捕虜(俘虜・ふりょ)たちは、貨物船で門司港に輸送され、北海道を除く全国12か所の収容所に振り分けられた。
膨大な人数の捕虜は受入れ態勢が不十分なまま、お寺や公民館から、急遽しつらえた粗末な仮設収容所に押し込められた。
仮設の環境は劣悪不潔で食料も乏しく、将校クラスも特別待遇を受けることはなかった。
脱走兵や規律違反の捕虜に制裁を加えるのは各所長の判断であり、身内を戦死させた敵兵への憎悪や体罰も、それなりにあったものと想像される。
やがて、新しい6か所の収容所が準備出来次第、それぞれに分けて各地へ移送された。


阿波踊り、渦潮と言えば、神戸から淡路島、そして四国へ渡る玄関口の鳴門。
鳴門海峡に渦巻く世界最大の渦潮の形から、「鳴門巻」が生まれた
鳴門の撫養(むや)港に最も近いのが、お遍路88か所巡礼の一番札所である高野山真言宗「霊山寺(りょうぜんじ)」。

板東俘虜収容所(ばんどう・ふりょ・しゅうようじょ)は、その霊場の一番札所に隣接した聖武天皇由来の由緒ある、
大麻比古(おおあさひこ)神社近くの、徳島県鳴門市大麻町、坂東郡板東町の陸軍演習場に新しく作られた。
全国でも最大規模の5万7千平方kmの敷地、所内で流通する紙幣や切手も印刷するなど商工業街区も用意された。
ちなみに、野球選手でタレントの板東英二は、ここの板東町出身である。
娘さんの坂東愛子さんは、私のJAL時代の国際線客室乗務員(CA)である。 


新設の板東俘虜収容所、所長には戊辰戦争で敗軍の会津出身ながら、陸軍士官学校を経て陸軍のエリート街道を苦労して進んできた、44歳の松江豊寿が就任した。
彼は官軍による屈辱の中で憤死した武士の父を瞼に浮かべながら、部下たちに訓示した。
「祖国を遠く離れた孤立無援の中で降伏した者の屈辱と悲しみは計り知れない。
絶望の状況で祖国愛に燃えながら最後まで勇戦敢闘した勇士たちである。
彼らの愛国精神と勇気は敵の軍門に下ってもいささかも損壊されることはない。
彼らの名誉を重んじ、武士の情けを根幹とする対応をすべてに心掛けよ。
理不尽に捕虜を犯罪者のように扱うことは固く禁じる!」  

人口500人の小さな坂東の田舎町に、1028人ものドイツ兵捕虜が住み始めた。
それは、1917年(大正6年)4月9日から始まり、1919年6月28日に、ドイツが敗戦降伏して、ドイツ皇帝が亡命し、ベルサイユ宮殿の鏡の間で「ベルサイユ講和条約」が締結されて、その年のクリスマスにドイツ本国へ捕虜送還が始まるまで、2年10か月続いた。


戦争であるから、当然数千人の死傷者が出ている。
日本各地から徴兵されてドイツ軍と戦って戦死した家族を持つ遺族は、その敵兵が捕虜となって我が国にやってくることにどのような感情を抱いたか? 
初めて目にする白人たちに相当な敵愾心と怨念がぶつけられるものと想像に難くない。
ところが、当時の写真や史料を調べて驚いた。
捕虜を乗せた列車が駅に到着すると、鳴門の皆さんは阿波踊りで迎えているではないか!
若い娘たちはタレントに群がるようにハンカチを振りながら駆け寄り、ドイツ兵たちはアコーディオンやハーモニカ、マンドリン演奏と合唱で歓迎に応じている。
まだ大戦さなかの、敵と味方である。信じられない光景だ。

なぜか? 
鳴門は、四国88か所お遍路巡りの、第一番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」の地元。
空海・弘法大師は、すぐお隣の香川県善通寺の生まれ。
全国から訪れる四国一周の「歩き遍路」はここから始まる。
いつも空海さまと一緒に巡礼していますよと言う、「同行二人(どうぎょうににん)」と書き付けた笠をかぶって、1340kmも街道を歩きぬく難行である。
歩きだけで達成できる人は40%と言われる。
その心の拠り所は、行く先々での地元民の「お接待」である。
行の巡礼を支援することで、私の願いの分まで代参に託して、宿を提供して饗応することで仏恩を授かる、そのお接待は行であり功徳であり、「今昔物語」にも記述されているように、古代から遺伝子に刻まれている地元の伝統なのである。
遠い欧州で戦争中の一部として、中国の一地域にいるドイツ人と日本が戦った、それを日本軍が打ち負かした。
日本人のネアカな鷹揚さは、捕虜となった彼らに憎しみどころか憐れみと同情を誘い、憧れの先進的な西洋文化文明を持つドイツに親しみを持って歓待したのであろうか。
戦争になっても、日本に滞在中のドイツ人は多くいた。
経済活動は禁じられていたが、ほぼ自由な日常生活を過ごしていた
その一般市民のドイツ人たちは、捕虜となった祖国の軍人たちに本や酒、食料、それに楽器やお金なども頻繁に差し入れした。
几帳面なドイツ人たちは規律正しく朝6時30分起床で、コーヒーとパンの朝食。
捕虜収容所とはいえ、中にはレストランや売店もある解放区、ボーリング場や運動施設、酪農に農園、ウイスキー蒸留場まで作られた
祖国で徴兵されてきた兵隊は元々一般市民たちであるから、パン屋、家具、時計、鍛冶職人、靴屋から建築家などあらゆる職人の多士済々がいた。
所内の印刷所では、バラック小屋の語源にもなる、“Die Baracke(兵舎)”と言う新聞も発行されていた。
ドイツ人たちの優れた技術や高度な作品は鳴門の地元民に紹介され、販売もされた。
我が国も、文明開化の明治維新からまだ数十年しか経っていない発展途上、目の前にいる本物のドイツ人たちの重厚な先進文化は喉から手が出るほど欲しくて、貴重で珍しい物ばかりだったはずである。

ドイツと言えば音楽の本場、音楽家も少なくはなかった。
収容所内では定期的にコンサートも開かれ、彼らは外出も許されて日本人の子弟にバイオリンなどを教えた。
写真家・立木義浩の徳島の実家「立木写真館」もレッスン会場になっていたほどである。

これ幸いと積極的に接触を図り、文明文化の啓蒙と移入を推奨した
彼らの指導を受けたパン屋さんが、「敷島製パン」誕生になったように、捕虜帰国後でも、170人ほどが日本に残って、ユーハイムなどの会社を創立している。

一般的に解釈される「捕虜収容所」の悲惨非業なイメージとは程遠い、まさに文化交流センターだったのだろうと、現地を取材していて確信したものである。
ただ、捕虜たちを海水浴に連れて行くなど、異例の待遇で寛大すぎると、松江所長はたびたび軍の上層部に呼び出されて批判されている。
それに対して所長は反論している、「ここは収容所であって、刑務所ではない」と。

1917年4月9日に坂東俘虜収容所が開設されて2か月後。


6月1日には、早くもドイツ兵たちがオーケストラを編成し、日本初どころか、アジア初の、ベートベン作曲「交響曲第9番」の全楽章を演奏している。


日本では年末の定番となっている、人類愛を唄う、あの“喜びの歌”である。
ベートベンが、詩人シラーの「自由賛歌・歓喜に寄せて」を元に1824年に作曲した、荘厳な大合唱付きの交響曲だ。
オーケストラに必要な楽器で足りないバイオリンなどは、捕虜の楽器職人が手作りした。
オーボエやファゴットなど調達できないものは、その音をオルガンで代用し、大合唱に必要な女性部分は、男性捕虜だけで歌えるように編曲した、とある。
本場の「第九」全楽章、フルオーケストラ演奏と、ドイツ語の腹の底から湧き上がる神の声にも聞こえる高貴な大合唱が、いにしえの霊場、第一番札所「霊山寺」のしじまに響き渡る・・・
鳴門の人々が感極まって感動と涙で聴き入っている様子が目に浮かぶ。


6月1日の初演を記念して、今日でも6月第一日曜日には、600人の大合唱と共に鳴門市文化会館ホール一杯に響き渡る「第九」コンサートが毎年開催されている。


ドイツ敗戦で6月28日にベルサイユ条約が締結され、祖国に帰国できるという喜びの中、彼らは地元の皆に喜んでもらおうと労働を続けて、7月27日には、重厚なドイツ式の石積み橋を完成させた。
霊山寺の隣にある大麻比古神社の鬱蒼とした森の中に、高さ9.6mの「ドイツ橋」は今も静かにたたずんでいる。 
1920年(大正9年)4月1日、『ムスター・ラーゲル』(模範収容所)と呼ばれた日独文化交流センター!は、
2年10か月の舞台に幕を降ろした。

地元で親しみを込めて呼んだ「ドイツさん」たちが、いよいよ本国へ帰国する日、鳴門の町は、まるで通夜のようだったと伝わっている。

1972年 その心温まる平和的交流の奇跡的な歴史を残すべく、鳴門の高台に、「ドイツ館」が開設された。
そこには、元捕虜のドイツ人のメッセージが書き残されている。
「世界のどこに、松江のような素晴らしい俘虜収容所長がいただろうか」

松江陸軍少将は、1922年、故郷の会津に帰り若松市長を務める
1956年5月21日、83歳の天寿を全うする。

黒木安馬の「気変わりメニュー」メルマガより引用 https://www.mag2.com/m/0000233212