『交響曲第九番』 アジア初演の秘話 軌跡の捕虜収容所
軌跡の捕虜収容所 『交響曲第九番』 アジア初演の秘話
⇒ Ludwig van BEETHOVEN 『交響曲第九番』 アジア初演の秘話
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
これは明治維新となる戊辰戦争で、最後まで徳川幕府藩として薩長
明治新政府の官軍に滅ぼされて苦難の体験をした福島・会津藩士の
そのサムライ魂のお陰で、日本とドイツの絆は歴史に残ることにな
明治維新は1868年。
日本は各藩の武士社会から、国を挙げての富国強兵の西洋式軍隊に
コロンブスの大航海時代以来、地球の至るところを植民地化してい
日露戦争前年の1903年にはライト兄弟が有人機の初飛行に成功
それから10年後の1914年、第一次世界大戦が始まる。
飛行機も空からの攻撃に加わるほど進化している。
ドイツを中心とするオーストリア・トルコ・ブルガリアの同盟国が
ドイツは中国の青島(チンタオ)を植民地化してアジアの根拠地に
日本は連合国の一員として、敵国であるドイツ基地を攻略するべく
本国からはるか遠い中国で孤軍奮闘のドイツ軍は、77日間であっ
森鴎外が1884年、北里柴三郎が1885年、瀧廉太郎が190
そのわずか数年後に、ドイツを敵にして戦争をしなければならなか
世界の一流国と肩を並べるには連合国の一員にならなければならな
4715人ものドイツ兵を戦争捕虜としたが、そこからが大問題だ
捕虜となって辱めを受ける前に「自決」するのが軍人、その日本的
1899年に国際的に締結されていた「ハーグ陸戦条約」の捕虜規
強制労働や虐待は国際相互協定で禁止されていたのだ。
後進国である日本を、白人国の欧米列強に「文明国である」と認め
4462名の捕虜(俘虜・ふりょ)たちは、貨物船で門司港に輸送
膨大な人数の捕虜は受入れ態勢が不十分なまま、お寺や公民館から
仮設の環境は劣悪不潔で食料も乏しく、将校クラスも特別待遇を受
脱走兵や規律違反の捕虜に制裁を加えるのは各所長の判断であり、
やがて、新しい6か所の収容所が準備出来次第、それぞれに分けて
阿波踊り、渦潮と言えば、神戸から淡路島、そして四国へ渡る玄関
鳴門海峡に渦巻く世界最大の渦潮の形から、「鳴門巻」が生まれた
鳴門の撫養(むや)港に最も近いのが、お遍路88か所巡礼の一番
板東俘虜収容所(ばんどう・ふりょ・しゅうようじょ)は、その霊
大麻比古(おおあさひこ)神社近くの、徳島県鳴門市大麻町、坂東
全国でも最大規模の5万7千平方kmの敷地、所内で流通する紙幣
ちなみに、野球選手でタレントの板東英二は、ここの板東町出身で
娘さんの坂東愛子さんは、私のJAL時代の国際線客室乗務員(C
新設の板東俘虜収容所、所長には戊辰戦争で敗軍の会津出身ながら
彼は官軍による屈辱の中で憤死した武士の父を瞼に浮かべながら、
「祖国を遠く離れた孤立無援の中で降伏した者の屈辱と悲しみは計
絶望の状況で祖国愛に燃えながら最後まで勇戦敢闘した勇士たちで
彼らの愛国精神と勇気は敵の軍門に下ってもいささかも損壊される
彼らの名誉を重んじ、武士の情けを根幹とする対応をすべてに心掛
理不尽に捕虜を犯罪者のように扱うことは固く禁じる!」
人口500人の小さな坂東の田舎町に、1028人ものドイツ兵捕
それは、1917年(大正6年)4月9日から始まり、1919年
戦争であるから、当然数千人の死傷者が出ている。
日本各地から徴兵されてドイツ軍と戦って戦死した家族を持つ遺族
初めて目にする白人たちに相当な敵愾心と怨念がぶつけられるもの
ところが、当時の写真や史料を調べて驚いた。
捕虜を乗せた列車が駅に到着すると、鳴門の皆さんは阿波踊りで迎
若い娘たちはタレントに群がるようにハンカチを振りながら駆け寄
まだ大戦さなかの、敵と味方である。信じられない光景だ。
なぜか?
鳴門は、四国88か所お遍路巡りの、第一番札所「霊山寺(りょう
空海・弘法大師は、すぐお隣の香川県善通寺の生まれ。
全国から訪れる四国一周の「歩き遍路」はここから始まる。
いつも空海さまと一緒に巡礼していますよと言う、「同行二人(ど
歩きだけで達成できる人は40%と言われる。
その心の拠り所は、行く先々での地元民の「お接待」である。
行の巡礼を支援することで、私の願いの分まで代参に託して、宿を
遠い欧州で戦争中の一部として、中国の一地域にいるドイツ人と日
日本人のネアカな鷹揚さは、捕虜となった彼らに憎しみどころか憐
戦争になっても、日本に滞在中のドイツ人は多くいた。
経済活動は禁じられていたが、ほぼ自由な日常生活を過ごしていた
その一般市民のドイツ人たちは、捕虜となった祖国の軍人たちに本
几帳面なドイツ人たちは規律正しく朝6時30分起床で、コーヒー
捕虜収容所とはいえ、中にはレストランや売店もある解放区、ボー
祖国で徴兵されてきた兵隊は元々一般市民たちであるから、パン屋
所内の印刷所では、バラック小屋の語源にもなる、“Die Baracke(兵舎)”と言う新聞も発行されていた。
ドイツ人たちの優れた技術や高度な作品は鳴門の地元民に紹介され
我が国も、文明開化の明治維新からまだ数十年しか経っていない発
ドイツと言えば音楽の本場、音楽家も少なくはなかった。
収容所内では定期的にコンサートも開かれ、彼らは外出も許されて
写真家・立木義浩の徳島の実家「立木写真館」もレッスン会場にな
これ幸いと積極的に接触を図り、文明文化の啓蒙と移入を推奨した
彼らの指導を受けたパン屋さんが、「敷島製パン」誕生になったよ
一般的に解釈される「捕虜収容所」の悲惨非業なイメージとは程遠
ただ、捕虜たちを海水浴に連れて行くなど、異例の待遇で寛大すぎ
それに対して所長は反論している、「ここは収容所であって、刑務
1917年4月9日に坂東俘虜収容所が開設されて2か月後。
6月1日には、早くもドイツ兵たちがオーケストラを編成し、日本
日本では年末の定番となっている、人類愛を唄う、あの“喜びの歌
ベートベンが、詩人シラーの「自由賛歌・歓喜に寄せて」を元に1
オーケストラに必要な楽器で足りないバイオリンなどは、捕虜の楽
オーボエやファゴットなど調達できないものは、その音をオルガン
本場の「第九」全楽章、フルオーケストラ演奏と、ドイツ語の腹の
鳴門の人々が感極まって感動と涙で聴き入っている様子が目に浮か
6月1日の初演を記念して、今日でも6月第一日曜日には、600
ドイツ敗戦で6月28日にベルサイユ条約が締結され、祖国に帰国
霊山寺の隣にある大麻比古神社の鬱蒼とした森の中に、高さ9.6
1920年(大正9年)4月1日、『ムスター・ラーゲル』(模範
2年10か月の舞台に幕を降ろした。
地元で親しみを込めて呼んだ「ドイツさん」たちが、いよいよ本国
1972年 その心温まる平和的交流の奇跡的な歴史を残すべく、鳴門の高台に
そこには、元捕虜のドイツ人のメッセージが書き残されている。
「世界のどこに、松江のような素晴らしい俘虜収容所長がいただろ
松江陸軍少将は、1922年、故郷の会津に帰り若松市長を務める
1956年5月21日、83歳の天寿を全うする。
黒木安馬の「気変わりメニュー」メルマガより引用 https://www.mag2.com/m/0000233212