2024/11/18 20:28

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JPM留学生インターンシップ・OBOGに聞く 2回目 郭イジョさん

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JPM留学生インターンシップ・OBOGに聞く 2回目 郭イジョさん

2010年から始まった、初めて業界団体が主催するというJPM(JAPAN PROPERTY MANAGEMENT ASSISIATION)留学生インターンシップも2019年で10回目を開催し、当初の役目をまずは終えたということで、一旦終了した。

 

180名以上の学生さんが、無事、所定のプログラムを修了し、多くの参加学生、受け入れ企業に新たな視点を与えた。

このインターンシップをきっかけに、不動産業界に興味を持ち、業界に就職した人もたくさん輩出した。

また、その他の学生さんも、多くはインターンシップの経験を生かして就職に成功している。

そこで、リレー方式で、『JPM留学生インターンシップ・OBOGに聞く』として定期的に、留学生のその後について紹介していきたいと思う。

上智大に通う郭イジョさんも、2010年に参加したインターンシップは自分に自信をつけるためにもとても役立ったようだった。

今は、インバウンドの広告関連の会社に勤めながら、海外の人たちに日本の魅力を伝えている。

福岡での日本酒のイベントを取材したり、中国人向けの不動産投資の広告を作ったりと、自分の経験も生かしながら、

毎日楽しく仕事をしているようだ。来年はオリンピックを迎え、中国でも日本旅行はますます、人気が上がっていると話してくれた。食べ物やファッションなども次から次に新しいものが紹介されるが、冷たいものは、口にしない中国人の特徴などをメーカーに助言したりもしている。

これからも、日本のいいところをどんどん、紹介していきたいと語ってくれた。

JPM留学生インターンシップ・OBOGに聞く 1回目 張新さん

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JPM留学生インターンシップ・OBOGに聞く 1回目 張新さん

2010年から始まった、初めて業界団体が主催するというJPM(JAPAN PROPERTY MANAGEMENT ASSISIATION)留学生インターンシップも2019年で10回目を開催し、当初の役目をまずは終えたということで、一旦終了した。

 

180名以上の学生さんが、無事、所定のプログラムを修了し、多くの参加学生、受け入れ企業に新たな視点を与えた。

このインターンシップをきっかけに、不動産業界に興味を持ち、業界に就職した人もたくさん輩出した。

また、その他の学生さんも、多くはインターンシップの経験を生かして就職に成功している。

そこで、今回より、リレー方式で、『JPM留学生インターンシップ・OBOGに聞く』として定期的に、留学生のその後について紹介していきたいと思う。

第1回目は、2010年、1回目の留学生インターンシップに参加して、学生リーダーとしても、インターンシップに協力してくれた明治大学の卒業生『張新さん(中国)』にお話を聞いた。

張新さんとの印象的な会話は、将来の夢を語った時だ。

彼は、コンビニでアルバイトをしているが、多くの食べ物をまだ食べられるのに廃棄している。その食べ物を無駄にしないで、十分に食べることができない中国人の人たちに送ってあげたいと語った。

実は、私も18歳の時に、大手のホテルのレストランでアルバイトをした時に、全く同じ思いをしたことがある。

そんなことを感じながら、自活するために懸命にアルバイトし、大学に通う彼の将来をサポートしたいと思うようになり、

自ずとインターンシップのサポートにも力が入った。

2010年当時の留学生も、自分たちが家を借りる際には大変苦労しており、自分たちが先頭に立って、その問題を解決するきっかけを作ろうと、インターンシップにも公的な使命を持って取り組んでいる学生さんが多かった。

そのような態度で、インターンシップに取り組む留学生を受け入れた企業の人たちも、彼らのそのような姿に感銘を受けた人たちも多かった。私も、初めての試みのインターンシップコーデイネイターとして、学生の採用、教育、受け入れ企業への紹介、インターンシップ中のサポートまで、彼らと付き合った。

4週間後の修了式では、涙ぐむ学生さんを祝福する受け入れ企業の担当者の人たちもこのインターンシップの意義を

理解していただき、パートナーとして担当者の方々にも有益なインターンシップにすることができたと思う。

張新さんは、卒業後は大手通信会社で勤務し、今ではマイホームも買って、立派な一児の父親になっている。

久しぶりに、名古屋に住む彼と話したが、今では、本業にも余裕が出来てきて、不動産投資の勉強をしようと

宅建の資格もとったそうだ。

インターンシップで不動産業の可能性に気づき、第二の人生も考えているという。

また、名古屋で仏教徒になり、心の修養もしているようだ。将来は、これから日本に来る人たちにも役に立ちたいと語ってくれた。

10年たっても、気軽に話せたのはとっても嬉しいことだった。

今後とも、いろいろな話をしながら、この関係を大切にしていきたいと思う。

日本人にとって『働く』とは?  東條英利氏連載コラム NO.12

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日本人にとって『働く』とは?  東條英利氏連載コラム NO.12



皆さんは、「働く」ということに対して、どういう想いを持たれているでしょうか。近年は、世界経済の失速が懸念され、日本でも恒常的不況が叫ばれております。一部には、このまま日本は後退して世界における存在感を弱めていくのではないか、そんな声が聞こえる始末です。果たして、本当にその通りになるでしょうか。実は、私はそう思ってはおりません。何故なら、私は、日本の強さの意味というものを知っているからです。

そもそも日本は、どうして、こんな資源もないまま、世界有数の経済大国になることができたのでしょうか。よく、技術力といった話を聞きますが、つまるところ、これは「人」です。この人的資源の強さが良い結果を招いたというのは確かでしょう。しかし、それが能力的な違いによるものかと言われれば、それは、NOです。何故なら、人という基本性能は何一つ変わっておらず、昔の人が優秀で今が劣っているということも学術的にも言えないからです。ただ、ひとつ、違いという点では、働くことに対する意識は違ったと言えるでしょう。実は、ここを、この「働く」という文字を以て説明することができます。

実は、この「働」という文字、これは、国字です。つまり、日本オリジナルの漢字となります。実は、日本人にとって、「働く」ということは、「人が動く」ことを意味します。その語源は、定かではありませんが、一部には、大きな岩を複数の人間が助け合って動かす様を示したとも言います。要するに、日本では、人のために動くことを以て、「働く」としたのです。これは、個人よりも組織を以て世界に臨んできたまさに日本の強さそのものと言えます。そして、これが、本来、日本人の持つ「働く」という意識です。

しかし、中国では、この「人べん」はつきません。「動」のままです。そこには人がいません。自らの意志を以て動く。まさしく、スタンドプレーの強みをこの一字は示しています。無論、これは、優劣を語るものではありませんが、やはり、日本には、日本の強みというものがあったはずです。そして、それを日本は証明してきた。そんな事が言えると思っています。そんな日本も、近年は、実力主義にならってか、どちらかと言えば、「動」の考えを以て、仕事を求める傾向が強まりました。自己実現、自分のやりたい職業、自分、自分。でも、ここには、日本の強さはありません。この「人」という言葉の意味が、いつの間にか、消えてしまいました。でも、世の中をみて、今日の迷走ぶりに、このスタンドプレーが悪い方に働いていると考えることはできないでしょうか。自分が望む前に、人が望むことをする。日本独自の強みを、こうした先人の知恵は示している、そう思うのです。

第9回国際紅白歌合戦 出演者インタビュー 

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第9回国際紅白歌合戦 出演者インタビュー 

SO ON PROJECT INTERVIEW

 

グエン・チュン・ベトさん(ベトナム)の INTERVIEW

Reinaさん(イギリス) の INTERVIEW

チンアユンさん(台湾) の INTERVIEW

 

田面山萌さん(日本・コンゴ) の INTERVIEW

 

GABLIEL さん INTERVIEW

PARK さん INTERVIEW

朝鮮族女性会の皆さん INTERVIEW

人類皆兄弟 さん INTERVIEW

GTN-A  INTERVIEW

 

GTN-B  INTERVIEW

村松由佳梨さん 

原田由貴子さん SALVACION UENOさん

グエン・タイン・ロンさん(ベトナム) 

太宰鶴恵さん(日本・コンゴ) 

上智大学インカレ SAFRO FAMILY 

K-POP DANCE(東京スクールオブミュージック) 

アニメの魅力を日本人と外国人が力を合わせて世界に発信したい!!

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アニメの魅力を日本人と外国人が力を合わせて世界に発信したい!!

今日は日本に声優を目指してやってきたイギリス人のReinaさん にお話を聞きした。 Reina さんは、子供の頃からアニメが好きでアメリカ、日本、いろんな国のアニメに触れてきた。

そして16歳の時に『北斗の拳』と言うアニメがきっかけになって、日本のアニメを知ることになった。それまでアニメというのはどちらかと言うと子供向けのものが多かったが、北斗の拳は大人が見るアニメとしてもいいものだった。 ラッキーなことに、大使館のあるイベントで入賞し、日本に旅行をする機会を得た。そこで、益々日本に行きたいという思いが強くなった。

大学では、コンピューターと日本語を専攻することにした。そのコースは1年間の日本への留学がカリキュラムにあったのが大きな理由だ。 将来は、日本に滞在して、アニメの勉強をしたいという夢も持っていた。

大学3年の時に桜美林大学で日本語を一年間勉強した。 その後、帰国し大学を卒業。すぐに日本に向った。 ALT(Assistant language Teacher)として、英語を教えながら、アニメ専門学校への入学が決まった。

それは、2011年3月8日のこと。 そして三日後に、東京で東日本大震災を経験した。多くの知り合いは日本を離れたり、関西に一時避難したりした。 私も日本語がまだまだだったので、英語でのニュースなどを聞き大変な状況だと知った。 しかし、日本の専門学校でアニメを学ぶことは 9年越しの夢だったので私は簡単に諦めることができなかった。

まだ新しい学校だったが、パフォーマンス科には、唯一の外国人の生徒として本当にいろんなことを経験した。

そして、その専門学校を卒業し、プロの声優として声優事務所に登録し、活動を開始した。 声優としての 仕事は競争率が高く、外国人の私が、オーディションに受かることは大変なことだった。 しかし少しずつチャンスをもらうようになり、日本語と英語ができる役者として舞台に立つこともあった。

声優としての大きな仕事はまだまだこれからだが、もっと日本語を学んでこれからもチャンスを伺いたいと思う。

アニ五輪について

日本で声優として、バイリンガルの俳優として活動して10年ほどになるが、日本のアニメが好きで、日本で活動したいと考える外国人も、どんどん増えてきている。 そして外国語ができる日本人声優や俳優また海外で活躍したいと思っている人たちも増えてきたので、アニメ関連の日本人と外国人を結びつける一つの大きな企画を作りたいと思った。

それが、『アニ五輪』(ANIME OLYMPIC)だ。 その手始めとして、短編のアニメを制作しようと準備をしている。 日本に長く住むアメリカ人が作ったアニメ制作会社と協力しながら私の知り合いの国際的な日本人やアニメを愛する外国人のネットワークを作って行きたい。

世界中に日本のアニメファンはいるが、私たち日本に住むアニメ好きの外国人が、日本のアニメの海外への発信を手助けするようなことをしたい。 アニ五輪は、まだまだ始まったばかりで、人材面、資金面、企画に関してもまだまだこれからのところはあるが、アニメを通して日本の事をもっともっと紹介していきたい。

国際紅白歌合戦に出ようと思ったきっかけは何?

実は2012年に、初めてこのイベントのことを知った。 そして今年は、人類みな兄弟と言う外国人と日本人が協力して、舞台を作り上げるグループのメンバーとしても参加する。 歌は本職ではないが、歌うことが大好きで特にアニソンなどは、よくカラオケでも歌うので歌でも挑戦したい。このイベントを通じても、新しい仲間をもっと作れるといいと思う。本番を楽しみにしている。

 

外国人が声優になることは、簡単なことではない。REINAさんのように明確な夢がないとなかなか実現するのは難しいかもしれない。 しかし、来年にオリンピックを迎え、状況もどんどん変わってきているように思う。 日本のアニメの海外での広がり方は、想像を絶するほどだ。 国際紅白歌合戦も、2018年はセブ(フィリピン)とバリ(インドネシア)で開催したが、SNSなどでイベントの告知を助けてくれたのは両国のアニメファンの人達だった。

海外の多くの人達は、ドラえもん、ドラゴンボール、ワンピース、北斗の拳、セーラームーンなどの日本のアニメを見て育っている。どのアニメにも、共通して描かれている仲間との友情の大切さ 、夢を追いかける尊さなど、子供の純粋な心はどこの国でも変わりはない。 大人になっても、同じように夢を追いかける人たちがいてもいいのではないか? 『アニ五輪』と『国際紅白歌合戦』。私たちも同じように純真な気持ちで、夢を追いかけて行きたいと思った。

アニ五輪 https://www.facebook.com/anigorin/

アニ五輪 クラウドファンディング https://www.justgiving.com/crowdfunding/anigorin?utm_id=60&utm_term=8wEWbyxX5&fbclid=IwAR3QD7zUyJp5s2n3YlHoUpaM_yeJCLLAl9apDSuMoD1HmxrmywnCIQ-Lz90

『日本人の証明』を出版して no.2  東條英利氏連載コラム NO.11

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『日本人の証明』を出版して  NO.2

 最近、私は、自著「日本人の証明」の発売にあわせ、精力的に講演活動を展開してまいりました。これも、一人でも多くの方に日本人としての基礎教養力を高めて頂きたいという一心で続けてきたわけですが、おかげさまで、各地域の反応もよく、地方における講演活動も順当に増え続けてまいりました。

そんな中、実は、先月、私の講演活動の中で、少々、趣の異なる講演がありました。それが、香港から三週間という期間限定で来日された、日本語を学ぶ短期留学生を対象とした日本文化セミナーです。

私も、今まで外国の方に、こうした日本の文化的背景のお話をしたことがありましたが、それも日本人が数多くいる中での、少数を前にした場合のみです。聴講者全員が海外の方というパターンは、私の今までの講演活動には、中々みられなかったものであります。これには、言葉の壁も含めて、この感覚的感性の強い日本人像に、海外の方がどれだけ理解を示めすのかが分からなかったというものもあります。しかし、実際やってみると、その反応は、日本人以上に積極的で、また、好意的なものであるということが分かります。

例えば、講演終了後の質疑応答。通常、日本人の間では、中々、こうした場では質問が起こりにくいものではありますが、彼らは積極的に私に質問をしてきてくれました。それも、中々に鋭い質問ばかり。例えば、「神社の参道では、真ん中を歩いてはいけないと聞きますが、それは何故ですか?」とか、「鳥居が赤い色をしているのに、何か理由があるのですか?」などなど。先ず、何故、そんなことまで知っているのかという驚きもありましたが、日本人からすれば、一見、当たり前と思うようなことばかり。しかし、その意味を私たちの多くが知っているか?と言われれば、そこには多少の疑問符がついてしまいます。しかし、そこを疑問に持つかどうかというのは非常に大事なことで、私も逆に、皆様に説明する際は、この当たり前と思うことの脱却から始めます。

実は、すべての物事には意味があります。しかし、それも当然のことと思っているだけでは、その物事の本質的理解は求められません。外国の方との異文化交流とは相手を知る以前に、自分の文化に対する無理解の気付きから始まる。そんな感覚すら覚えます。私たちは今一度、自分たちの持つ意味が何であるのか、疑問を持つ必要があるのではないでしょうか。

グローバルな社会で必要とされる教養とは? 東條英利氏連載コラム  NO.16

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グローバルな社会で必要とされる教養とは?

 

東條英利氏連載コラム  NO.16

今回は、ちょっとしたご報告。実は、この度、一般社団法人国際教養振興協会を正式に発足致しました。まぁ、これも今までの活動をより組織的に営むためのひとつの手段ではありますが、長年、検討を続けてきた結果、7月に正式に発足致しました。当協会は、きちんと教養を身に付けて、グローバルな世界で活躍できる人材育成というのを目的に発足致しました。何故なら、多くの方は、海外に出るという点において、ひとつ大いなる誤解をしているからです。

 

例えば、以前、ある社長とこんな話に及んだことがあります。「もし、私たちが米国で友達を作ろうと思った時、一番手っ取り早い方法は何だろうか」。こんな時、多くの方が、「英語が話せればいい」とか、「相手と共通の話題、先方の文化、社会をいった海外事情を事前に学んでおけばいい」と答えるでしょう。しかし、もっと単純な方法があるのです。それが、「着物を着る」ということです。実は、これだけで、私たちは十分なアイスブレーキングが出来てしまいます。何故なら、それは彼らにはない文化を私たちが持っている唯一のアドバンテージだからです。これだけで、多くの方から「一緒に写真撮って下さい」と言われます。

 

当協会のメンバーには、外資系大手の社長を務められた方を含め、国内外で活躍された様々なエキスパートが在籍しておりますが、皆さん、口々に、「教養が大事」だと言います。何故なら、人としての起点、基軸のない人間は、魅力や信頼に欠け、実際、貴重な海外生活を無駄にする人が後を断たないからです。例えば、母国に対する教養、アイデンティティを備えないまま、アメリカに留学すると、中には、そのまま考え方や立ち振る舞いが、アメリカ人気質にリライトさてしまう方も少なくありません。一見、それが、国際感覚に見えてしまいがちですが、現実はそんなに甘くありません。残念ながら、国内では、純粋なバイリンギャルで成功した人はほとんどいません。何故なら、スポーツ選手のような個人の力量が物を言う世界は別ですが、あくまで、国内で就労することを見越した場合、やはり、国内の習慣や価値観、市場性に準拠した人でなければ、正直、使いものにならないからです。

 

『日本人の証明』を出版して 東條英利氏連載コラム NO.10

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『日本人の証明』を出版して  東條英利氏連載コラム NO.10

 目下、拙著「日本人の証明」の発売を機に全国で講演活動に準ずる日々。ありがたいことに、実に、多くの反響が寄せられているのですが、そんな反響を通じて実感するのが、やはり、わが国の文化伝承力は明らかに低下しているということ。例えば、私の講義に高い関心を示す層に、その一端を垣間みることができます。それが、地方の三代目くらいの若手経営者です。彼らは、とりわけ、私が主張する教養の意味、意義について、高い関心を示してくれます。もちろん、理由は、色々とあるのかもしれませんが、ひとつ挙げられる点としては、やはり、彼らも家業や家督を継承する立場にあるということです。というのも、彼らの多くは、家業や家督を継承並びに、世襲する立場にあるものの、名前以上の意味や本質的役割について、ほとんどと言っていい程、理解していないからです。それが、自身が親という立場になればなおさらで、実際、子供に何を伝えていけばいいのか分からず、漠然たる不安感に苛まれることも少なくないようです。

 

しかも、この三代目という立場は、創業者の仕事を直接見て来た訳ではないので、創業期の意志、イデオロギーというものを直に感じられる環境になかったことも、こうした不安感に拍車をかけていると言えるかもしれません。それは、私自身も同様で、私も「東條」という名を継承したものの、当初、その意味が分からず、漠然たるコンプレックスをその身にまとっておりました。ただ、私の場合、この名がかなりの異彩を放つことによって、希有な環境に育ったということ。そして、海外駐在を始めとした自己のアイデンティティに開眼できる状況にいたことは、幸いだったのかもしれません。結果として、この経験が、そうした層の方たちに強く支持を集めるようになりました。

 

以前、出版者の方と打合せをしていた時にも、企業の後継者が育たないことが、深刻な社会問題を引き起こすとの話題を集めておりました。私たちは、実は、かけがえもないことを失いつつあるのかもしれません。是非、身の回りのことに意識を払ってみて下さい。何か、見えてくる部分があるかもしれません。

2012年 今どうして通訳ボランティアガイドなのか? (要約版)

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思いやりのある言葉は短く簡単なものであっても、
その反響はじつに無限である。(マザー テレサ)
Kind words can be short and easy to speak,
but their echoes are truly endless.(Mother teresa)



今どうして通訳ボランティアガイドなのか?

日本で学ぶ留学生に明治神宮を案内


世界は今、急速な国際化社会に向かって、突き進んでいます。日本も例外ではありません。大都市圏では、国際結婚のカップルが10組に1組を数え、いろいろ な国から来た留学生や働く外国人の人たちを目にすることも珍しくなくなりました。しかし、一般的にはまだまだ日本に住んでいる外国人の人たちと親しく付き合っている人は少ない状況です。ましてや海外からの観光客との接点などはほとんどない人が大半ではないでしょうか。


ここ数年は1700万人以上の日本人が海外に旅行やビジネスで渡航しています。そこで多くの人たちは現地の普通の人たちの『やさしさ』や『思いやり』の気持ちに感銘を受けて帰国しています。けっして、日本と比べると豊かとはいえない国の人たちがいきいきと生活していて、外国から訪れている自分たちを歓迎してくれる。


そろそろ、私たち日本人もこころをオープンにして、日本に住んだり、訪れたりしている外国人の人たちを暖かく迎え入れる必要があるのではないでしょうか。通訳ボランティアガイドの業務はその歓迎の気持ちを伝えていく大切な使命を持っています。
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やる気があれば誰でも出来る通訳ボランティアガイド


学生時代に外国人の人たちを案内して学んだこと



私は高校時代に英語もよくわからないのに観光案内をした経験があります。留学に対する願望があったのですが、英語を覚えるにしても外国人をあまり見かけることもない大阪ではどうしようもないとあきらめていました。ある日、大阪城をランニングしている時に、外国人の年配のご夫婦を見かけることがありました。最初は話しかける勇気がなかったのですがあるとき思い切って、用意したガイドブックをもってそれを見ながら話しかけました。何とか相手も自分を理解しようとしてくれたので、どうにか会話が出来ました。何回かやっているうちにだんだんと慣れてきて、自信もついてきました。つたない英語でも話せば相手が喜んでくれる。本当に感激しましね。

  私は、漠然と外国語には興味はあるけど、外人に話しかける勇気がない、あるいは話すきっかけがないと思っている人に、ボランティアガイドの楽しさを伝えていき、また人に喜んでもらえる、ガイドする楽しさを体験してほしいと思っています。

(グローバルコミュニティー 宮崎計実)

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学生や若者が通訳ボランティアガイドをする5つのメリット

1:外国語を話すことに自信
⇒語学は度胸だ。

2:外国人の視点で日本の文化に触れる

⇒日本の良さを再発見

3:相手の国の文化とも比較しながら深くて意味のあるコミュニケーションをすることが出来る。
⇒異文化に寛容な気持ちを育る。

4:自分がした行為がとても感謝される。感謝される喜びを感じ取れるようになる。
⇒人間の本当の喜びを感じられる。

5:言葉のコミュニケーションが十分でない分、より相手が何を求めているのかを理解しようと努力することが出来る。
⇒相手への思いやりの気持ち。高度なコミュニケーション能力が身につく。

↓↓↓
通訳ボランティアガイドは『生きた語学力』・『思いやりの心』・『コミュニケーション能力』と社会人として必要な基礎的能力が総合的に養われるとても有意義な体験である。



グローバルコミュニティー(GC)学生通訳ボランティアガイド

目明治神宮にて2年生中心のメンバーで活動中!!

通訳ボランティアガイドに興味のある方は

①お名前②年齢③住んでいる都道府県④学生の場合は学校名⑥英語あるいはその他使える外国語のレベル等を記入の上、

globalcommunity21@gmail.com GC学生通訳ボランテイアガイド事務局までご連絡ください。詳しい資料と説明会のご案内をさせていただきます。 (日本人学生・留学生・学生OBOGの方々も大歓迎です!!)


初めての参加の方には、明治神宮での模擬ガイドを英語で受けてもらいその後、実地研修を行います。大事なのは『語学力』より『相手に喜んでもらいたいという気持ち』楽しいと思えば、語学も本気で勉強しようという気持ちになります。

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4年目を迎える学生通訳ボランテイアの活動
オリンピック招致運動の語学ボランテイア


2009年2月に結成した学生通訳ボランティア連絡会の初の大仕事は、2009年4月にあった東京オリンピック招致活動のIOC視察に伴う海外プレスセンターでのお手伝い。英語・中国語・韓国語対応の出来るメンバー約50人で1週間のスケジュールをこなす。当初は、LEAF、AISECなどの国際系学生団 体に所属しているメンバーや英語の得意な留学生、WEBサイトを見て集まって来た学生、2006年より活動を開始した『2016年東京オリンピックを望む 学生の会』の混成チームで活動した。プレス・レセプションにも参加させてもらい、外国人記者クラブの会長や安藤忠雄さんに突撃インタビューを試みたりと活動的なメンバーが多かった。今年、2020年のオリンピック招致に向けた活動が開始されたが、同じようにIOCの視察に伴う語学ボランテイアの活動をするとなると2013年の2ー4月頃になる予定。


2009年冬から定期的な英語での観光案内体験を明治神宮を拠点に開始。
月1度、東京シティガイドのベテランガイドの方に明治神宮で模擬ガイドをしてもらい、本格的に英語でのガイドの勉強会をスタート。ガイド活動希望者がどんどん増加し、参加者は、100名を超える。
『神社とお寺の違いを外国の旅行者に分かりやすく説明するには?』『どうして絵馬に願い事を書くのか?』『なぜ、和装の花嫁は角隠しをするのか?』などの質問にも、テキパキと答えるガイドさんに尊敬のまなざし。英語は留学して勉強したが会話が深まらない。日本のことを勉強しないといけない。そう感じた学生も多 かったに違いない。

案内をした色々な国から来た観光客の人たちと明治神宮休憩所にて


2010年にリーダーが男性(新井誠さん 大東文化大4年)から女性(谷岡理絵さん 駒沢大2年)に移り、女性のメンバーが大多数になる。


うれしいことに社会人になった新井さんは、今でも留学生を誘って遊びに行ったり、色々な国際交流イベントに関わってくれている。7月には、多くの留学生を連れて富士山に登る計画をしているようだ。谷岡さんは、昨年、初めて開催した国際紅白歌合戦で司会をしたり、歌を歌って観光庁長官賞をもらったりと大活躍。今は、後輩の指導などをしてくれている。何事にも懸命に取り組む姿、人に対する優しい気遣いはこの活動で培ったものだと思う。今は毎週のように明治神宮に行って活動しているようだが、定期的な活動をしているメンバーは、みんな明治神宮の澄み切った空気のようにピュアな学生さんが多い。社会に出ると辛いこともあるかも知れないが、心の休まる場所が、東京の真ん中にあることは、素晴らしいと思う。
 

about Dr. B R Ambedkar

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Dr.Ambedkar debate with Gandhi

Dr Babasaheb Ambedkar full movie english

Dr Ambedkar's Speech in English

The first Round Table Conference (RTC) held in London, 1930

Best speech about Dr. B R Ambedkar

Bhimrao Ramji Ambedkar (14 April 1891 – 6 December 1956), popularly known as Babasaheb Ambedkar, was an Indian juristeconomistpolitician and social reformer who inspired the Dalit Buddhist movement and campaigned against social discrimination towards the untouchables (Dalits), while also supporting the rights of women and labour. He was independent India's first law and justice minister, the architect of the Constitution of India, and a founding father of the Republic of India. In India and elsewhere, he was often called Babasaheb, meaning "respected father" in Marathi and Hindi.

Ambedkar was a prolific student earning doctorates in economics from both Columbia University and the London School of Economics and gained a reputation as a scholar for his research in law, economics, and political science. In his early career, he was an economist, professor, and lawyer. His later life was marked by his political activities; he became involved in campaigning and negotiations for India's independence, publishing journals, advocating political rights and social freedom for Dalits, and contributing significantly to the establishment of the state of India. In 1956, he converted to Buddhism initiating mass conversions of Dalits.

In 1990, the Bharat Ratna, India's highest civilian award, was posthumously conferred upon Ambedkar. Ambedkar's legacy includes numerous memorials and depictions in popular culture.

quoted from  https://en.wikipedia.org/wiki/B._R._Ambedkar

Early life

Ambedkar was born on 14 April 1891 in the town and military cantonment of Mhow (now Dr. Ambedkar Nagar) in the Central Provinces (now in Madhya Pradesh).[1] He was the 14th and last child of Ramji Maloji Sakpal, an army officer who held the rank of Subedar, and Bhimabai Sakpal, daughter of Laxman Murbadkar.[2] His family was of Marathi background from the town of Ambadawe (Mandangad taluka) in Ratnagiri district of modern-day Maharashtra. Ambedkar was born into a poor low Mahar (dalit) caste, who were treated as untouchables and subjected to socio-economic discrimination.[3]Ambedkar's ancestors had long worked for the army of the British East India Company, and his father served in the British Indian Army at the Mhow cantonment.[4] Although they attended school, Ambedkar and other untouchable children were segregated and given little attention or help by teachers. They were not allowed to sit inside the class. When they needed to drink water, someone from a higher caste had to pour that water from a height as they were not allowed to touch either the water or the vessel that contained it. This task was usually performed for the young Ambedkar by the school peon, and if the peon was not available then he had to go without water; he described the situation later in his writings as "No peon, No Water".[5] He was required to sit on a gunny sack which he had to take home with him.[6]

Ramji Sakpal retired in 1894 and the family moved to Satara two years later. Shortly after their move, Ambedkar's mother died. The children were cared for by their paternal aunt and lived in difficult circumstances. Three sons – Balaram, Anandrao and Bhimrao – and two daughters – Manjula and Tulasa – of the Ambedkars survived them. Of his brothers and sisters, only Ambedkar passed his examinations and went to high school. His original surname was Sakpal but his father registered his name as Ambadawekar in school, meaning he comes from his native village of Ambadawe in Ratnagiri district.[7][8] His Devrukhe Brahmin teacher, Krishna Keshav Ambedkar, changed his surname from "Ambadawekar" to his own surname "Ambedkar" in school records.[9]

Education

Post-secondary education

In 1897, Ambedkar's family moved to Mumbai where Ambedkar became the only untouchable enrolled at Elphinstone High School. In 1906, when he was about 15 years old, his marriage to a nine-year-old girl, Ramabai, was arranged.[10]

Undergraduate studies at the University of Bombay

Ambedkar as a student

In 1907, he passed his matriculation examination and in the following year he entered Elphinstone College, which was affiliated to the University of Bombay, becoming, according to him, the first from his Mahar caste to do so. In his book, The Buddha and His Dhamma, that when he passed his English fourth standard examinations, the people of his community wanted to celebrate because they considered that he had reached "great heights" which he says was "hardly an occasion compared to the state of education in other communities". A public ceremony was evoked, to celebrate his success, by the community, and it was at this occasion that he was presented with a biography of the Buddha by Dada Keluskar, the author and a family friend.[10][11]

By 1912, he obtained his degree in economics and political science from Bombay University, and prepared to take up employment with the Baroda state government. His wife had just moved his young family and started work when he had to quickly return to Mumbai to see his ailing father, who died on 2 February 1913.[12]

Postgraduate studies at Columbia University

In 1913, Ambedkar moved to the United States at the age of 22. He had been awarded a Baroda State Scholarship of £11.50 (Sterling) per month for three years under a scheme established by Sayajirao Gaekwad III (Gaekwad of Baroda) that was designed to provide opportunities for postgraduate education at Columbia University in New York City. Soon after arriving there he settled in rooms at Livingston Hall with Naval Bhathena, a Parsi who was to be a lifelong friend. He passed his M.A. exam in June 1915, majoring in Economics, and other subjects of Sociology, History, Philosophy and Anthropology. He presented a thesis, Ancient Indian Commerce. Ambedkar was influenced by John Dewey and his work on democracy.[13]

In 1916 he completed his second thesis, National Dividend of India – A Historic and Analytical Study, for another M.A.,[citation needed] and finally he received his PhD in Economics in 1927[14] for his third thesis, after he left for London. On 9 May, he presented the paper Castes in India: Their Mechanism, Genesis and Development before a seminar conducted by the anthropologist Alexander Goldenweiser.[citation needed]

Postgraduate studies at the London School of Economics

Ambedkar (in centre line, first from right) with his professors and friends from the London School of Economics (1916–17)

In October 1916, he enrolled for the Bar course at Gray's Inn, and at the same time enrolled at the London School of Economics where he started working on a doctoral thesis. In June 1917, he returned to India because his scholarship from Baroda ended. His book collection was dispatched on different ship from the one he was on, and that ship was torpedoed and sunk by a German submarine.[12] He got permission to return to London to submit his thesis within four years. He returned at the first opportunity, and completed a master's degree in 1921.[citation needed] In 1922, he was called to the Bar by Gray's Inn[citation needed] and in 1923 he presented his thesis titled "The problem of the rupee: Its origin and its solution".[15] He completed a D.Sc. in Economics in the same year. His third and fourth Doctorates (LL.D, Columbia, 1952 and D.Litt., Osmania, 1953) were conferred honoris causa.[16]

Opposition to untouchability

Ambedkar as a barrister in 1922

As Ambedkar was educated by the Princely State of Baroda, he was bound to serve it. He was appointed Military Secretary to the Gaikwad but had to quit in a short time. He described the incident in his autobiography, Waiting for a Visa.[17] Thereafter, he tried to find ways to make a living for his growing family. He worked as a private tutor, as an accountant, and established an investment consulting business, but it failed when his clients learned that he was an untouchable.[18] In 1918, he became Professor of Political Economy in the Sydenham College of Commerce and Economics in Mumbai. Although he was successful with the students, other professors objected to his sharing a drinking-water jug with them.[19]

Ambedkar had been invited to testify before the Southborough Committee, which was preparing the Government of India Act 1919. At this hearing, Ambedkar argued for creating separate electorates and reservations for untouchables and other religious communities.[20] In 1920, he began the publication of the weekly Mooknayak (Leader of the Silent) in Mumbai with the help of Shahu of Kolhapur i.e. Shahu IV (1874–1922).[21]

Ambedkar went on to work as a legal professional. In 1926, he successfully defended three non-Brahmin leaders who had accused the Brahmin community of ruining India and were then subsequently sued for libel. Dhananjay Keer notes that "The victory was resounding, both socially and individually, for the clients and the Doctor."[22][23]

While practising law in the Bombay High Court, he tried to promote education to untouchables and uplift them. His first organised attempt was his establishment of the central institution Bahishkrit Hitakarini Sabha, intended to promote education and socio-economic improvement, as well as the welfare of "outcastes", at the time referred to as depressed classes.[24] For the defence of Dalit rights, he started five periodicals – Mooknayak (the leader of the dumb, 1920), Bahishkrit Bharat (Ostracized India, 1924), Samta (Equality, 1928), Janata (The People, 1930), and Prabuddha Bharat (Enlightened India, 1956).[25]

He was appointed to the Bombay Presidency Committee to work with the all-European Simon Commission in 1925.[26] This commission had sparked great protests across India, and while its report was ignored by most Indians, Ambedkar himself wrote a separate set of recommendations for the future Constitution of India.[27]

By 1927, Ambedkar had decided to launch active movements against untouchability. He began with public movements and marches to open up public drinking water resources. He also began a struggle for the right to enter Hindu temples. He led a satyagraha in Mahad to fight for the right of the untouchable community to draw water from the main water tank of the town.[28] In a conference in late 1927, Ambedkar publicly condemned the classic Hindu text, the Manusmriti (Laws of Manu), for ideologically justifying caste discrimination and "untouchability", and he ceremonially burned copies of the ancient text. On 25 December 1927, he led thousands of followers to burn copies of Manusmrti.[29][30] Thus annually 25 December is celebrated as Manusmriti Dahan Din (Manusmriti Burning Day) by Ambedkarites and Dalits.[31][32]

In 1930, Ambedkar launched Kalaram Temple movement after three months of preparation. About 15,000 volunteers assembled at Kalaram Temple satygraha making one of the greatest processions of Nashik. The procession was headed by a military band, a batch of scouts, women and men walked in discipline, order and determination to see the god for the first time. When they reached to gate, the gates were closed by Brahmin authorities.[33]

Poona Pact

M. R. Jayakar, Tej Bahadur Sapru and Ambedkar at Yerwada jail, in Poona, on 24 September 1932, the day the Poona Pact was signed

In 1932, British announced the formation of a separate electorate for "Depressed Classes" in the Communal AwardGandhifiercely opposed a separate electorate for untouchables, saying he feared that such an arrangement would divide the Hindu community.[34][35][36] Gandhi protested by fasting while imprisoned in the Yerwada Central Jail of Poona. Following the fast, Congress politicians and activists such as Madan Mohan Malaviya and Palwankar Baloo organised joint meetings with Ambedkar and his supporters at Yerwada.[37] On 25 September 1932, the agreement known as Poona Pact was signed between Ambedkar (on behalf of the depressed classes among Hindus) and Madan Mohan Malaviya (on behalf of the other Hindus). The agreement gave reserved seats for the depressed classes in the Provisional legislatures, within the general electorate. Due to the pact, the depressed class received 148 seats in the legislature, instead of the 71 as allocated in the Communal Awardearlier proposed by British Prime Minister Ramsay MacDonald. The text uses the term "Depressed Classes" to denote Untouchables among Hindus who were later called Scheduled Castes and Scheduled Tribes under India Act 1935, and the later Indian Constitution of 1950.[38][39] In the Poona Pact, a unified electorate was in principle formed, but primary and secondary elections allowed Untouchables in practice to choose their own candidates.[40]

Political career

A photograph of the election manifesto of the All India Scheduled Caste Federation, the party founded by Ambedkar, 1946

In 1935, Ambedkar was appointed principal of the Government Law College, Bombay, a position he held for two years. He also served as the chairman of Governing body of Ramjas College, University of Delhi, after the death of its founder, Rai Kedarnath.[citation needed] Settling in Bombay (today called Mumbai), Ambedkar oversaw the construction of a house, and stocked his personal library with more than 50,000 books.[41] His wife Ramabai died after a long illness the same year. It had been her long-standing wish to go on a pilgrimage to Pandharpur, but Ambedkar had refused to let her go, telling her that he would create a new Pandharpur for her instead of Hinduism's Pandharpur which treated them as untouchables. At the Yeola Conversion Conference on 13 October in Nasik, Ambedkar announced his intention to convert to a different religion and exhorted his followers to leave Hinduism.[41] He would repeat his message at many public meetings across India.

In 1936, Ambedkar founded the Independent Labour Party, which contested the 1937 Bombay election to the Central Legislative Assembly for the 13 reserved and 4 general seats, and secured 11 and 3 seats respectively. Ambedkar was elected to the Bombay Legislative Assembly as a legislator (MLA).[42]

Ambedkar published his book Annihilation of Caste on 15 May 1936.[43] It strongly criticised Hindu orthodox religious leaders and the caste system in general,[44] and included "a rebuke of Gandhi" on the subject.[45] Later, in a 1955 BBC interview, he accused Gandhi of writing in opposition of the caste system in English language papers while writing in support of it in Gujarati language papers.[46]

Ambedkar served on the Defence Advisory Committee[47] and the Viceroy's Executive Council as minister for labour.[47]

After the Lahore resolution (1940) of the Muslim League demanding Pakistan, Ambedkar wrote a 400-page tract titled Thoughts on Pakistan, which analysed the concept of "Pakistan" in all its aspects. Ambedkar argued that the Hindus should concede Pakistan to the Muslims. He proposed that the provincial boundaries of Punjab and Bengal should be redrawn to separate the Muslim and non-Muslim majority parts. He thought the Muslims could have no objection to redrawing provincial boundaries. If they did, they did not quite "understand the nature of their own demand". Scholar Venkat Dhulipala states that Thoughts on Pakistan "rocked Indian politics for a decade". It determined the course of dialogue between the Muslim League and the Indian National Congress, paving the way for the Partition of India.[48][49]

In his work Who Were the Shudras?, Ambedkar tried to explain the formation of untouchables. He saw Shudras and Ati Shudras who form the lowest caste in the ritual hierarchy of the caste system, as separate from Untouchables. Ambedkar oversaw the transformation of his political party into the Scheduled Castes Federation, although it performed poorly in the 1946 elections for Constituent Assembly of India. Later he was elected into the constituent assembly of Bengalwhere Muslim League was in power.[50]

Ambedkar had twice became a member of the Parliament of India representing Bombay State in the Rajya Sabha, the upper house of the Indian parliament. His first term as a Rajya Sabha member was between 3 April 1952 and 2 April 1956, and his second term was to be held from 3 April 1956 to 2 April 1962, but before the expiry of the term, he died on 6 December 1956.[51]

Ambedkar contested in the Bombay North first Indian General Election of 1952, but lost to his former assistant and Congress Party candidate Narayan Sadoba Kajrolkar. He tried to enter Lok Sabha again in the by-election of 1954 from Bhandara, but he placed third (the Congress Party won). By the time of the second general election in 1957, Ambedkar had died.[52][53]

Opposition to Aryan invasion theory

Ambedkar viewed the Shudras as Aryan and adamantly rejected the Aryan invasion theory, describing it as "so absurd that it ought to have been dead long ago" in his 1946 book Who Were the Shudras?.[54]

Ambedkar viewed Shudras as originally being "part of the Kshatriya Varna in the Indo-Aryan society", but became socially degraded after they inflicted many tyrannies on Brahmins.[54]

According to Arvind Sharma, Ambedkar noticed certain flaws in the Aryan invasion theory that were later acknowledged by western scholarship. For example, scholars now acknowledge anās in Rig Veda 5.29.10 refers to speech rather than the shape of the nose. Ambedkar anticipated this modern view.[55]

Ambedkar disputed various hypotheses of the Aryan homeland being outside India, and concluded the Aryan homeland was India itself.[56] According to Ambedkar, the Rig Veda says Aryans, Dāsa and Dasyus were competing religious groups, not different peoples.[57]

Drafting India's Constitution

Ambedkar, chairman of the Drafting Committee, presenting the final draft of the Indian Constitution to Rajendra Prasad on 25 November 1949

See also: Constitution of India and Constituent Assembly of India

Upon India's independence on 15 August 1947, the new Congress-led government invited Ambedkar to serve as the nation's first Law and Justice Minister, which he accepted. On 29 August, he was appointed Chairman of the Constitution Drafting Committee, and was appointed by the Constituent Assembly to write India's new Constitution.[58]

Ambedkar was a wise constitutional expert, he had studied the constitutions of about 60 countries. Ambedkar is recognised as the "Father of the Constitution of India".[59][60] In the Constitution Assembly, a member of the drafting committee, T. T. Krishnamachari said, "(...) it happened ultimately that the burden of drafting this constitution fell on Dr. Ambedkar and I have no doubt that we are grateful to him for having achieved this task in a manner which is undoubtedly commendable."[61][62]

Granville Austin described the Indian Constitution drafted by Ambedkar as 'first and foremost a social document'. 'The majority of India's constitutional provisions are either directly arrived at furthering the aim of social revolution or attempt to foster this revolution by establishing conditions necessary for its achievement.'[63]

The text prepared by Ambedkar provided constitutional guarantees and protections for a wide range of civil libertiesfor individual citizens, including freedom of religion, the abolition of untouchability, and the outlawing of all forms of discrimination. Ambedkar argued for extensive economic and social rights for women, and won the Assembly's support for introducing a system of reservations of jobs in the civil services, schools and colleges for members of scheduled castes and scheduled tribes and Other Backward Class, a system akin to affirmative action.[64] India's lawmakers hoped to eradicate the socio-economic inequalities and lack of opportunities for India's depressed classes through these measures.[65]The Constitution was adopted on 26 November 1949 by the Constituent Assembly.[66]

Opposition to Article 370

Ambedkar opposed Article 370 of the Constitution of India, which granted a special status to the State of Jammu and Kashmir, and which was included against his wishes. Balraj Madhok reportedly said, Ambedkar had clearly told the Kashmiri leader, Sheikh Abdullah: "You wish India should protect your borders, she should build roads in your area, she should supply you food grains, and Kashmir should get equal status as India. But Government of India should have only limited powers and Indian people should have no rights in Kashmir. To give consent to this proposal, would be a treacherous thing against the interests of India and I, as the Law Minister of India, will never do it." Then Sheikh Abdullah approached Nehru, who directed him to Gopal Swami Ayyangar, who in turn approached Sardar Patel, saying Nehru had promised Sheikh Abdullah the special status. Patel got the Article passed while Nehru was on a foreign tour. On the day the article came up for discussion, Ambedkar did not reply to questions on it but did participate on other articles. All arguments were done by Krishna Swami Ayyangar.[67][68]

B.R. Ambedkar in 1950

Support to Uniform Civil Code

I personally do not understand why religion should be given this vast, expansive jurisdiction, so as to cover the whole of life and to prevent the legislature from encroaching upon that field. After all, what are we having this liberty for? We are having this liberty in order to reform our social system, which is so full of inequities, discriminations and other things, which conflict with our fundamental rights.[69]

During the debates in the Constituent Assembly, Ambedkar demonstrated his will to reform Indian society by recommending the adoption of a Uniform Civil Code.[70][71] Ambedkar resigned from the cabinet in 1951, when parliament stalled his draft of the Hindu Code Bill, which sought to enshrine gender equality in the laws of inheritance and marriage.[72] Ambedkar independently contested an election in 1952 to the lower house of parliament, the Lok Sabha, but was defeated in the Bombay (North Central) constituency by a little-known Narayan Sadoba Kajrolkar, who polled 138,137 votes compared to Ambedkar's 123,576.[73][74][75] He was appointed to the upper house, of parliament, the Rajya Sabha in March 1952 and would remain as member until death.[76]

Economic planning

Ambedkar was the first Indian to pursue a doctorate in economics abroad.[77] He argued that industrialisation and agricultural growth could enhance the Indian economy.[78] He stressed investment in agriculture as the primary industry of India. According to Sharad Pawar, Ambedkar's vision helped the government to achieve its food security goal.[79]Ambedkar advocated national economic and social development, stressing education, public hygiene, community health, residential facilities as the basic amenities.[78] He calculated the loss of development caused by British rule.[80]

Reserve Bank of India

Ambedkar was trained as an economist, and was a professional economist until 1921, when he became a political leader. He wrote three scholarly books on economics:

  • Administration and Finance of the East India Company
  • The Evolution of Provincial Finance in British India
  • The Problem of the Rupee: Its Origin and Its Solution[81]

The Reserve Bank of India (RBI), was based on the ideas that Ambedkar presented to the Hilton Young Commission.[82]

Second marriage

Ambedkar with wife Savita in 1948

Ambedkar's first wife Ramabai died in 1935 after a long illness. After completing the draft of India's constitution in the late 1940s, he suffered from lack of sleep, had neuropathic pain in his legs, and was taking insulin and homoeopathic medicines. He went to Bombay for treatment, and there met Dr. Sharada Kabir, a Saraswat Brahmin, whom he married on 15 April 1948, at his home in New Delhi. She was 39 year old and he was 57. Doctors recommended a companion who was a good cook and had medical knowledge to care for him.[83] She adopted the name Savita Ambedkar and cared for him the rest of his life.[84] Savita Ambedkar, who was called 'Mai' or 'Maisaheb', died on 29 May 2003, aged 93 at Mehrauli, New Delhi.[85]

Conversion to Buddhism

See also: Dalit Buddhist movementNavayana, and Deekshabhoomi

Ambedkar receiving the Five Precepts from Mahasthavir Chandramani on 14 October 1956. In the photograph (from right to left): Savita Ambedkar, B. R. Ambedkar, Wali Sinha and bhikkhu Chandramani.

"... I regard the Buddha's Dhamma (Buddhism) to be the best. No religion can be compared to it. If a modern man who knows science must have a religion, the only religion he can have is the Religion of the Buddha. This conviction has grown in me after thirty-five years of close study of all religions."

— Babasaheb Ambedkar, preface of The Buddha and His Dhamma, 6 April 1956[86]

Ambedkar considered converting to Sikhism, which encouraged opposition to oppression and so appealed to leaders of scheduled castes. But after meeting with Sikh leaders, he concluded that he might get "second-rate" Sikh status, as described by scholar Stephen P. Cohen.[87]

Instead, he studied Buddhism all his life. Around 1950, he devoted his attention to Buddhism and travelled to Ceylon (now Sri Lanka) to attend a meeting of the World Fellowship of Buddhists.[88] While dedicating a new Buddhist vihara near Pune, Ambedkar announced he was writing a book on Buddhism, and that when it was finished, he would formally convert to Buddhism.[89] He twice visited Burma in 1954; the second time to attend the third conference of the World Fellowship of Buddhists in Rangoon.[90] In 1955, he founded the Bharatiya Bauddha Mahasabha, or the Buddhist Society of India.[91] He completed his final work, The Buddha and His Dhamma, in 1956 which was published posthumously.[91]

After meetings with the Sri Lankan Buddhist monk Hammalawa Saddhatissa,[92] Ambedkar organised a formal public ceremony for himself and his supporters in DeekshabhoomiNagpur on 14 October 1956. Accepting the Three Refuges and Five Precepts from a Buddhist monk Mahasthavir Chandramani in the traditional manner, Ambedkar completed his own conversion, along with his wife. He then proceeded to convert some 500,000 of his supporters who were gathered around him.[93] He prescribed the 22 Vows for these converts, after the Three Jewels and Five Precepts.[94] On this occasion, many upper caste Hindus too accepted Buddhism.[95] After Nagpur, on 16 October 1956, Ambedkar again gave Buddhism to more than 300,000 of his followers at Chandrapur, since the place is also known as Deekshabhoomi.[96] He then travelled to Kathmandu, Nepal to attend the Fourth World Buddhist Conference.[90] There he went to the Dalit settlements of Kathmandu city, and saw the condition of Nepali Dalits, he was visibly angry. When this matter became known to the then Prime Minist